昭和四十五年五月二十五日 朝の御理解
御神訓
一、神は声もなし、形も見えず、疑えば限り無し恐るべし。疑いを去れよ。
確かに神様は声もなければ形も無いのでございますし、言うことも出来ぬのでございますから疑うて懸かれば限りないのでございます。けれども信心をさせて頂いておかげを受けると云う事は丁度門が閉まって居るその門を叩いて人を呼ぶようなものだと思います。大音情に昔はろうれいとこう云うた。ね、今でももしもしと云うて戸を叩いてどんなに叩いてもどんなに叩いても誰も中から開けて来ないならばその中は不在であります、と思うていいのですねえ。ところが戸はしっかり閉まって居る、中は見えません。見えませんけれども戸を叩いてみますと中からまろうれいと云う声と同時に戸を開けてくれる。するとそこの中には人が居ったと云うことになります。私共が真心を持ってと又は一心を以ってと云われて居りますその一心を以って神様とお縋りさせて頂きますとですね、中からそれに応えて出てきて下さる様に成程神様ちゃござるんだなあと云うことが感じられそしてそれが信じられる様になる。そこにいわゆる神様不在ではなくて神様実在と云うことを疑うていや信じて疑わない、信じて疑わんで済むおかげを頂かせて貰うことが出来る。 ですからやはり戸を叩かなければ門を叩かなければならん。やはり神実在ましますか不在であるかと云うことも確かめずにそんなものがあるものかと神も仏もあったものじゃない、神様やら仏様がござるならお前世の中に難儀やらはある筈が無いじゃないかと云った様なことを簡単に言う人がありますねえ。段々分かって来ると神様がござるからこそ神様が実在ましますからこそいわば病気もありゃ災難もあるとさえ分かって来る様になるのです。
ですから先ず私は信心させて頂くと云う事は神の実在を知るところから信心がほんとに出来ることになる。ほんとな信心が出来る。ね、又の御神訓に「疑いを去りて信心してみよ。御影は我が心にあり」ともあります。疑いを去りて信心してみよ、御影は我が心にあり。いわゆる疑うて懸かればみんな嘘と。ね、そんな事があるものかと云う人の上にはやっぱりそんなものはないかの様にみえる。疑うてかかればもうみんな嘘と云うこと。半信半疑じゃおかげも半分と。半信半疑じゃ神様も働きを半分にしてしまうのだと。信じてかかればね、全てがおかげと、全部がおかげだと云う程にね、実はっきりして居るのです。「疑いを去りて信心をしてみよ、御影は我が心にあり」先生はああ言われるけれども先生はああ仰るけれどもとけれどもの付く間はだからまだほんとに信じて居る云うことは云えませんね。少おしは信じて居る、けれどもそれをその侭受け取ることは出来ない。どこの宅祭の時だったでしょうか頂いた御理解に、神の教え云うならここでは私がここでお話をして居ることをです金光様のコマーシャルの様に思うて居ると云う様な御理解を頂いたことがある。テレビなんかでああしてね、薬なら薬のコマーシャルを聞いて居りますともうほんなことにですね、その薬が薬なら薬がほんとにもう充分に効く様に宣伝して居りますよね。いわば針小棒大とでも申しましょうかねえ、針の様な小さい事実を棒の様に大きく言うてるのです。沢山の御教えがございますがそれが例えばお道の信心に依るほんなら教典なら教典と云うものがです、ね、金光様の御信心の云うなら宣伝文句、ね、と云う様にですいわゆるキャッチフレーズとこう申しますね。人の心をグッとこう掴む事の為に御教えが有るような、だからあれが先生が言わっしゃる通りならとてもと云うごたる考えで聞く人がある。けれどもねこりゃもう私自身ほんとに感じます事はね、もうそれこそ一分一厘の嘘もないと云うことですよ、御教えは。そこで私が最近皆さんに申しております様にね、教祖様が天地の親神様から受けられた御教えをです話にして遺しておくと云うその話にして遺しておって下さったのがこの教典なんです。いわば天地の親神様からの直伝なんです。ね、その神様のいわば直伝であるそれをです「そうですか、そうでございますか」と素直に受けてですそれを信じて信心してみよ、御蔭は我が心にあり、この我が心と云うのは我自分自身の心とこういう和らぎ賀こぶ心とは書いて有りませんね。我が心、確かに自分の心に成程神様があるんだと自分の心に感じることが出来るんだ。成程そういう心懸けになりゃ心の上に感じる、だからこりゃ形の上に現れたおかげではないに致しましても自分の心にそれを感じることが出来る。ですからその自分の心に感じる神様、又は自分の心に感じるそのおかげをです、いよいよ確固たるものにです間違いの無いものに育てて行くと云うところに信心の修行があるんですよ。その様にです例えば間違いの無い例えば御教えをです私共が本気でその様に我が心に頂いて信じて疑わずそれを頂いてね、信じてかかれば全てがおかげと仰せられる程しのおかげを受けて表して行くと云うことがです教祖様の教えて下さることがそりゃぁ宣伝文句じゃあないコマーシャルじゃあないほんとにそういうおかげが受けられるんだとです、教祖様の教えて下さったそのおかげを表して行く。いわば実証して行く。私共が、ね、教祖様の御教えを信じて疑わずそれを常時守らせて頂いてそこから感じられる自分の心の中に神様がござるなと神様は不在じゃない実在、神様の実在を信じて疑わない。そしてそれをです、なら自分の心の上にも頂き形の上にもおかげを頂いてです表して行くと云うことはとりも直さず教祖様の御教えをですね実証して行くことになる訳です。云うならば私共はお道の信心に御縁を頂いて金光様を唱えさせて貰い金光様のお取次に依っておかげを頂いて行くと云う人はです、云うなら教祖様の御教えの実証者でなからなければならんと云うことになります。ね、
昨日丁度午後から奉仕させて頂いてね、福岡の松岡さんがお参りして、参って来る人毎にです私ここで丁度山口の永田先生がお参りになって居られました。永田先生を金光様の先生と知っちゃない。普通のちょっとした洋服を着て見えとりましたからね先生と云うことを知って無かった模様です。だからまあ もんですから自分がおかげを受けたことを一生懸命、永田先生はここでお取次頂いておるわけ、松岡さんは障子を開けてここのとこに座って居るわけそれで私がお取次を終わったら永田先生をつかまえて、とにかくこの神様は間違いの無い神様ですよと。もう私はもうそのおかげ話でよかならどがしこ頂いとるやら分からんけんでどがしこでもしてあげますと云うてから先生つかまえて言いよんなさる。事実おかげを受けてある。ほんとほんなことですかと云う様なおかげを受けて居るわけですよ。ね、第一番に娘さんがね目の玉に空気銃の弾が入った時など、医大でこれは手術は請け合わんと盲になるか分からんから。手術をしよってその視覚のそれに触れておると云う、そのレントゲンにかけた結果。だから手術も出来んと云うてもう目は腫れ上がってですね、とにかく痛みを訴えるもんですからもう親としてどうにもこうにも仕様が無い時に初めて当時椛目の金光様に大変なおかげを皆さんが頂きよよんなさるからそれこそちんばが立ったり目が開いたりする程しのおかげを受けよんなさるからあんたも一緒に参れと云うて田主丸のむつやの奥さんがお導きして参ってきたのが初めてでした。ね、そして一週間目におかげを頂いた。一週間目にお夢を頂いた。お夢の中で誰かがここんところを手術して下さる人がある夢の中で。そして中から空気銃の弾らしいものを手の平に置いてこれじゃたろうがと云うて見せて下さったそれは夢じゃった。それっきり痛みが取れた。ここの傷口がそれから一カ月かそれくらいの間に傷口が無くなった。十七、八の娘でしたが現在はよかお母さんになっとります。どんなに考えても夢の中で手術をして貰うてその空気銃の弾を摘出して下さるなんて誰が考えたってほんなこととは思われない。当時椛目で私がそういうお話をおかげを受けた話をしよりますとね、もう不思議にその私が話よった人が参って来るんですよね。例えば、んなら松岡さんがこういう様なおかげを頂いたと云うて私が参ってきた御信者さんに私がお話しよるとひょろっと参って来る。ほら今私が話よった人はこの方ですよと云う様にいわば実証的であったおかげが。これは非常に、ですから今度はそれをですね、そのまあ悪宣伝の方になって参りますと椛目はさくら使うちゃると云う評判が立つぐらいでありました。今この人がこんなおかげを受きなったと云うたらはあおかげを頂いた人がここに現れて来るもんですからもうほんとにさくら使ってある様にはっきりしたもんでした。まあその時分の事を思わせて頂くと、私がね、云うならば如何に神様を信じて疑わない力がいわば強かったかと云うことを思います。そういう事が目の前で実証されましたからねえ。まあそういう例を云うならもう沢山でした。椛目時代のあのお広前そういう様なことはほんとに椛目の金光様は云うならさくら使うちゃると云われる程しにおかげを受けたもんです。どんなに疑い深い人でもです、やはりそれを信ぜん訳にはいけんと云う。ところが人間はですね、どれだけそうした実証的なものを見せても聞かせてもです、ね、さあ自分の願いが成就しなかったり致しますと自分の信心の真が欠けておったり一心が足り無かったことを頭に上げてですまあ神様もいい加減なもんだと云う様なことを考えがちなんですね。
私は今ね、椛目からこっち二十何年になりましょうがほんとに私の取次に依って助かった人達が現在ここでおかげ頂いて居るならそれこそ大変なことだろうと思うんですよ。けれどもそれが相応に信心は出来ていない、いわゆる信心をそれがそうには頂いていないと云うこと。
そこでですね皆さん、云うなら確かに神は声もない、形も見えない疑えば限りが無い。けれどもねけれどもです、なら朝なら朝の御祈念の後に私がここで皆さんにお伝えさして頂くと云う事が、あれはとても人間の知恵やら力やらで話ござるとじゃあない、神様からお知らせを頂いて神様が大坪総一郎の口を借って話ござるんだと皆さんが信じることが出来たらほんとに神様のお言葉であると信じれたらそれを守らなければ居られません。ありゃあ大坪さんが話ござるとありゃ先生が話ござると、ね、云うならば神の一言としてですそれを信じて頂かせて貰う云うところにね御影は我が心にありと云う神様の実証、神様を神様の神の実在を信じることの出来れるおかげが受けられる。
神を信じて疑わない生活、そこに人間の幸せ幸福があると云うことがです分かって来る様になったら信心はいよいよそれこそ止められる段のことじゃありませんですよね。神を信じて疑わない生活、そういう生活が人間の幸福な生活であると云うこと。皆さんそこまでね信心を高めそこまで神様を信じさせて頂けるところまでお互いの信心を高めさせて頂きたいと思うですね。
そこでです、この事だけは皆さん信じて下さいと今私が言いたいことなんです。ね、成程神様は声もない、姿もない、けれどもね天地金乃神様の働きと云うものはです自然の中に一杯辺満しておるものである。ま、この地球上だけの事だけではありますまいけれども地球上の人間の住むこの地球上の中にです、その天地の親神様のね氏子を幸せにしたい、してやりたい又幸せになって呉れと云う願い神様の願いと云うものがですこの世の中には一杯詰まっておるんだと云うこと。
そこでです、自然に起きて来る様々な時点いわゆる成行きであります。ね、だからその成行きそのものが神の働きとして頂けれる、それをその侭神の働きとして信じられると云う事になって参りますとですね、神様はね、声もない姿もないと仰せられますけれどもそこにはっきり神の姿を見ることが出来る。神の声を聞くことが出来る。ね、この世の中には一杯天地の親神様の氏子を幸せにしたい、いや信心しておかげを受けて呉れよと云う願い、そういう願いが一杯云うなら私共の周辺にあるのですから云うならばそういうおかげの中に埋まって居る様なものが人間です。それを信じない、それを疑う、だから神様はござるかござらんか分からない、いいや神も仏もあるものかちと云った様なことにまでなるのです。
そこでね、成行きあるいは自然の働きそのものを神様の働きと見る。例えばここに親と子の問題に致しましても夫婦の問題に致しましてもね、様々な人間関係と云う、が、まあ難しいと云われて居りますがですその人間関係の難しさと云うものがです、私の前に現れて来る子供と私の問題、私の周囲に起きてくる私と家内との問題をですね例えば取り上げてみますとです、ね、例えば自然の働きの中に子供が私の目の前で云うならばいくら言うても言うても言う事を聞かない、目に余る様な事をすると致しましょうか。ね、そういう時に私は「どうしてお父さんが言うことが分からんか。お前はどうして言うことを聞かんか」と云うところには神様はないですね。けれどもその子供の姿そのものがです、ね、神様の姿だとみる、神の声だと聞く、そしてその事がどの様に例えば難儀な様相を呈して居りましてもです、ね、その問題がいわばどの様に目に余る様な例えば事柄でありましてもです、即その事を神様の働きとしてそれを見ることが出来る、それをそう信じることが出来たらその事自体を拝まなければ居られなくなって来るのですよ。ね、神様の働きそのものを拝む。そこにはね、例えば不平もなからなければ不足もないそこのところを私は成行きを尊ぶとか成行きを大切にするとか云う風に申します。如何に神様を尊ぶと云うても大切にすると云うてもね、只神棚の上にお祀りして居る神様だけを大事にすると云うのではなくて神様の働きそのものを大事にせよと云うこと。ね、神様の働きそのものを尊べと云うこと。それは神様を尊ぶことになるのであり大事にすることになるのですから神様が又氏子を尊んで下さり氏子を大切にして下さるおかげが次には約束される訳であります。私はね、もう合楽では何処をここをとは申しません。ここだけでもよいから信じて頂きたいと思うです私は。これは私二十何年間言い続けて来たことなんですよね。成行きを尊べ、成行きを大切にせよと。その成行きそのものが神様の働きぞと、場合には辛抱出来ん様な事もある。ね、腹の立つこともある。その成行きそのものの中に馬鹿にされる様な事もある。ね、恥ずかしい思いをすることもあるけれどもですその事自体を神様の働きとして頂かせて貰う時にです、ね、恥ずかしい思いをするなら恥ずかしい思いをしなければならない内容が自分の中にある。腹が立つならね、腹を立てねばならない様な相手を責める段じゃあない自分自身の心に成程と合点の行く様なものがある。その様にして私共は向上して行く、信心が進んで行くわけです。
あれを信じこれを信じよ。それは様々な働きをですね神様あらゆる角度からですね、ここには神は声もないと仰るけれどもです今のは神の声じゃたろうかと思う様に例えば朝参りなんかなさるとさる方達は時間が来るとねほらもう何時ぞと言うて起こされる様な体験を沢山皆さんも頂かれるでしょうが。ね、今日は月の夜でもないこんな真っ暗い中は家に帰ってみてから今日はどうして月の明りの様に道があげんはっきり分かったとじゃろうかと云った様な体験を持った人が幾らもあるでしょうが。真の闇夜にですね、自分の歩いとるところが明るい。それを歩いて気付かなかった。帰ってあらっと云う様なことがあるでしょう。私の母なんか善導寺にずっと朝参りさして貰う、女一人で朝参りすることですからやっぱり寂しい所を通ると寂しい。ね、そういう時にですねよく体験したと云う、後ろから当時あの馬車と云うのがありましたからねえ、馬車がずっとガラガラ ガラガラ云うちから後ろから馬車が来よるばいなあと思うて善導寺の近くでちょっと後ろを向くと馬車がいなかったと。例えば云うならそういう不思議なですね云うならば信心さして貰よるとそういう不思議に接することが幾らもあります。ですからそこにほんとに神様信じん訳にはいかない様な事態と云うことがありますけれどもここには神は声もなしと仰るけれどもこれだけは絶対間違いのないと云うのが自然の働きなんです。ね、その自然の働きそのものが神様だ。だからこういう様な事は嫌やですとか御免蒙りますと云うことは神様の働きを云うならばお粗末にして居る様なものです。 神様の働きをお粗末にすると云うことはその侭神様をお粗末にするのと同じ事です。ね、ですからお互いが一生懸命修行さして頂くともどういう事態どういう事が起きて参りましてもそれを神様の働きとして頂ける度胸を作る為にです云うならば信心の修行をして居ると云うてもよいのです。どういう事が起こってきてもどっこい神様の働きが私の上にこの様にして現れて来たと云う訳なんです。ね、だからね、そこを信じて頂きたい。昨日御祈念が済んでからね、皆さんが帰られます。それを御祈念が済んでから御祈念を久留米の佐田さんがあのうお知らせを頂いて居られますのにそこの出口を皆さんが一人一人帰って行かれるのに私がそこの所へ座って手を付いて一人一人にですね一人一人に頭を下げて居った。ね、何の為に私が一人一人に頭を下げて居るだろうか。又明日もどうぞ参って来て下さいとどうぞお供えば沢山して下さいと云うて頭を下げて居るのであろうか。氏子信心しておかげを受けて呉れよと天地の親神様が私共に地を低うしておかげはここにあるのだ、やりたいのだけれどです氏子に信なければおかげはなしと仰るのだからね信じて呉れよと、神は信じる者のみ信じれるのだ。だから信じて呉れよ、信心して呉よと云うて神様が一人一人に頭を下げてござるのとおんなじだ。私が皆さんに一人一人に頭を下げて私が頂いて居る信心、私が神様を信じて居る度合から思うてみてです、ここをこう信じればこうおかげが頂けると私が思うから、ね、みんなに帰りがけに今日の御理解をしっかり行じて下さいよとね、私が言うて居ることを信じて下さいよと云うて私は頭を下げて居る姿ではなかろうかと思いました。ね、神様が頭を下げて氏子信心しておかげを受けて呉れよとね、お互いが微かにでもです神の実在をそこに信ずることが出来たならその信じるその心をいよいよね、確固たるものいわゆる不動のもの、動かないものどの様なことがあっても壊れないいわゆる不壊のもの、壊れない不壊ね、神様を信じて居ったけれども信心しよったけれどもこんな事が起こった。もう神様もあるもんじゃないと云った様な事をまあ申しましたね皆さん、第一大東亜戦争の終戦敗戦と云う惨めな事になりましたら今まで拝みよった神様仏様もあるもんかと云うて神様も仏様も叩き壊した人が沢山有ります。ね、けれども神様が居られたからこそ負けたけれどもこの様なおかげを受けて居る訳なんですけれど、ね、自分の都合の良いことなら成程神様はござると云った様な浅はかな信心ではいけません。人間の知恵や力と云うものはそれこそ目先目先の事だけしか分かりません。神様は先の先にどの様なおかげを下さるか分かりません。試験が出来ない、落第をした。あれだけ神様にお願いをして居ったのにと思うて居ったらね、一年経ち二年経ちして居る内に成程落ちて居って良かった合格せんで良かったと云う事実がはっきりして来る。ね、まあ極端な例で云うと広島にあの原爆が落ちました時にね、或教会の御信者さんでもう最高に頭の良い娘さんがこの人が通らん筈が無いと云う人が通らなかった。どうして通らなかったじゃろうかと云うてその先生にまあ言われる位だった。けども神様の御都合に違いないからと云うて居りましたらそれから何ヵ月の後に広島にその学校が中心になる様な所に原爆が落ちたんですね。そこの学校の生徒は全滅だった。だから郊外の云うなら場末の学校に行った娘さんはおかげで助かったと云う様にですね、神様の御神意と云うのは計り知れないのですから。だからその計り知れないところを云うて神様はござるのござらんのと云う様なことは早計です。それは浅はかな人間の言うことです。ね、だからほんとに神様は声もない形も無いけれどもそれこそ疑えば限りが無いのですから、限りが無い程しにです神様をいよいよ限りなく信じて行くと云うところにです、信心の日日の稽古が私はあると思うんですよね。
疑いを去りて信心をしてみよ、御影は我が心にある。もう早速もうしもうしと云うて戸を叩きますと中からどうれと云うて出て来るならばです、確かに中に人間が実在して居ったんですよ。ね、門を叩いてお願いをさせて頂いてね、したらねそこにおかげを自分の心に感じるならばです神様はやはり中に実在して居られたのですからね、そこからお互い私共と神様との一つの関わり合い云うなら続柄関係を良く分からせて頂いてこの神様は切っても切ることの出来ない天地金乃神様いわゆる親神様であると云う事実をね、生活の上に頂かせて頂く生活、いわゆるその神様を信じて生活する生活、そこに人間のいよいよ幸福がある訳です。
今日私御神前でこういう草冠にタを書いていわゆる片仮名のヒですね、これは苑と云うですね確か、苑と云う字苑ちゅうでしょうこれは、草冠に私はこれは私は無学ですからどういう事か分かりませんけれど今日の御理解に関係のある事だろうと思います。後で皆さん字引を引いてご覧なさい。この意味が良く分かるでしょう。草冠、草冠は今日私が言うておる自然の事だと思いますね。草冠は自然と云う事を頂きますからまあ今日私が申しております自然成行きそのものがです神様の働きだと信じれるところまで一つ合楽の信心を本気で頂いて頂きたいと思いますね。どうぞ。